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吉屋信子

明治29年~昭和48年 小説家。新潟県生まれ。少女小説「花物語」の連載の傍ら、「地の果てまで」「海の極みまで」で文壇的地位を確立しました。「良人の貞操」「安宅家の人々」などの作品があります。昭和19年から25年、37年から没年まで長谷に居住しました。

信子は休養と疎開をかねて、昭和十九年五月に鎌倉大仏裏の別荘に移りました。鎌倉での生活は静養につとめ、もっぱら読書と俳句を楽しみました。俳句誌「鶴」に宗有為子の名で投句をしていましたが、長谷の近くに住んでいた俳人の星野の父、高浜虚子に師事し、熱心に「ホトトギス」に投稿することになりました。

また、久米三汀(正雄)居の句会はこの淋しい時代の慰めでした。二十年三月十日に空襲で牛込砂土原の留守宅は焼失しました。昭和二十一年になると、新興の雑誌が相つぎ発刊され、再び長編小説の執筆をはじめました。

信子は昭和四十五年七月から『週刊朝日』に念願の「女人平家」の連載をはじめました。しかし、執筆中に不調をうったえ、病魔と闘いながら作品を完成させると同時に、次の作品“太閤北政所”の構想づくりに精魂をつくしました。やがて、病状が悪化し、四十八年七月十一日にガンのため鎌倉の恵風園病院で死去しました。(享年七十七歳)鎌倉の高徳院(大仏)裏の墓地に葬られました。法名は紫雲院香誉信子大姉です。

百合咲いて俄かに近し向う山

大仏裏にすみし頃

空見れば月とおん母ねはん像

長谷大仏殿のねはん図にて

輪飾や棲めば棲まる、假住居

昭和二十年に、東京の家消失後 大仏裏に棲つづけて

吉屋信子と潮会

潮会は昭和21年、吉屋信子らが創立しました。戦後の混迷の中で、「今こそ婦人の教養向上を」の願いがこめられていたといいます。事務所を大仏殿におき、昭和48年には100名を越える人数になっていました。この頃の名誉会長は信子でした。会では文学、芸術、宗教などについて語り合われました。

鎌倉の駅前にたくさんならぶバスの方向標示はさまざまある、そのなかでいちばん風雅な標示は(大仏ゆき)の文字である。
私が昨年東京のスモッグと騒音から逃げ出して来た新居は大仏よりぐっと手前の長谷観音へ向かう大通りの奥だから、その(大仏ゆき)のほかに(藤沢行)や(江ノ島行)のバスの通路にも当たり、その途中の停留所で降りればいいのだから、何も大仏ゆきに乗らずともすむのに、私は(大仏ゆき)のバスに乗ったほうがなんだかこころがなごやかだ。
これは、私が昭和十四年以来、その大仏のうらの谷戸に時おり遊びに来る家を建てて、戦中の空襲下の東京を避けてしばらく棲んでいたせいもある。けれどもバスの(大仏)ゆきの文字が好きだから乗るという感覚の方がそれより強い。
─略─
あの戦中はさすがに観光客もそうなかった。戦いの末期の夏の宵、私は人ッ子一人ない境内を歩いたら、夕月の仄かな明るみの下に大仏さまが寂然として眼を伏せられていた。─美男におわす夏木立かな─と晶子が讃えたその御美男大仏も大いなる悲しみに堪え給うさびしいお姿だった。いまも忘れぬ印象である。
それ以来、大仏をしみじみと仰ぐのは、人のいないしんとした黄昏に限ると思い込んだ私だが、今はその刻をねらうと境内の入り口が閉じられる。
だが一つの方法がある。それは大仏殿のご住職夫人を訪問してそのお庭の木戸から出れば、月下の大仏さまをあたりが暮れてからの無人の境内で心ゆくまで仰げるのだ。いつかその治子夫人に夕餉に招かれた日に境内に立ったが、あいにく、月のない晩だった。

─月下の大仏─
吉屋信子全集12 朝日新聞社

吉屋信子句碑

秋燈下机の上の幾山河

碑の裏面に「吉屋信子明治二十九年一月十二日生 昭和四十八年七月十一日没」とあります。この句は没後に刊行された「吉屋信子句集」に収められています。信子は俳句を高浜虚子に師事し、大仏の句も遺しています。

大仏は猫背におわす冬立木

俳句をどうにか上手になりたいと願った時がある。鎌倉の虚子庵へ伺って謹んで志を述べると、虚子が最初に言われた。
「小説と違って俳句は小さいところを見つめて作るものです。」と、指で小ちゃい丸をつくって、そこからのぞく真似をされた。ああなるほど、小さいところに眼をつける・・・と考えた。それから俳句をつくるには、まずちっちゃい物を睨みつけてつくる練習がよかろうと思った。

─桜餅─
吉屋信子全集12 朝日新聞社

信子は昭和四十五年七月から『週刊朝日』に念願の「女人平家」の連載をはじめました。しかし、執筆中に不調をうったえ、病魔と闘いながら作品を完成させると同時に、次の作品“太閤北政所”の構想づくりに精魂をつくしました。やがて、病状が悪化し、四十八年七月十一
日にガンのため鎌倉の恵風園病院で死去しました。(享年七十七歳)鎌倉の高徳院(大仏裏)の墓地に葬られました。法名は紫雲院香誉信子大姉です。