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大佛次郎(おさらぎ じろう)

本名 野尻清彦 明治30年~昭和48年 小説家。横浜生まれ。長兄に英文学者の野尻抱影がいます。東京帝国大学卒業。鎌倉高等女学校(現、鎌倉女学院高等学校)で教師をした後、外務省の嘱託となりますが、文筆に専念するため、退職。「鞍馬天狗」などの時代小説や現代小説、ノンフィクション、史伝と幅広く執筆。当初多くの筆名を用いたが、大仏裏に住んでいたときの筆名が終生続きました。
大正10年から昭和4年にかけて長谷に居住しました。

私のペンネーム 大佛次郎(本名 野尻清彦)

物を書き始めたころに、鎌倉長谷の大仏の裏に住んでいたので、仮に附けた。役所につとめて物を書くのが具合悪く、また本名で書くような性質の仕事をしていなかつたので匿名に撰んだ。ほんものの大仏が太郎だから、謙遜して自らは次郎とした。「おさらぎ」と読むのは、北条氏の一族でこの土地に住むのを大仏と書いて、こう読んだからで、芝居の高時天狗舞に出てくる陸奥守大仏貞直など、それである。この人物、楠正成を千早城に攻めて敗れたが名将であって、芝居でも高時の暴虐を諌める役である。この苗字のひとが、もと旅順の学校の校長さんをしておられ、そのお嬢さんが訪ねてくれた。御祖先はと尋いたら四国の海賊だつたと聞きましたと笑つたが、陸奥守にゆかりがあるのは、このひとであろう。私は金仏の方の弟分、すなわち、美男であつて身持の堅い所以か?

「東京新聞」1953年(昭和28) 9月24日掲載

「鎌倉大仏裏」

正午過ぎてから、猶も続く余震の間に、僕等は町の様子を見に行った。一歩大仏の境内に入って直ぐ吃驚した。境内は避難民で一杯だ。大仏は依然として端座しているが、膝の下の石垣が崩れた為に大分前に傾いている。又大仏の身体に相応して作った青銅の蓮など、何百貫とも知れぬ重いものが、無残にも大地に倒れていた。寺は無論倒れて屋根の廂が大地に喰い込んでいる。山門も傾いて左右の仁王は思い思いに倒れていた。片方のは憤怒の形相凄まじく金網を突き破って上半身を前に乗り出している。更に酷いのは大仏通りだ。左右の家が徹底的に崩れ落ちたので、屋根の上を歩かねば通れない。火事は直ぐ先で止まっていたが、まだ余燼からめらめらと赤い舌を吐いていた。

大佛次郎「鎌倉大仏裏」
雑誌「中学生」大正12年11月号所収

地震の話

今年は大正大震災から四十年とのことである。四十歳のひとならあの大震災をまだ赤ん坊でしらず、四十五、六のひとがわずかに幼い記憶を持つ勘定になる。鎌倉、横浜がどんな風にこわれたことか、現在、土地に住んでいる者の大部分が知らないことになる。鎌倉市図書館では、当時の鎌倉の社寺が受けた災害の姿を写真で今日の分と対照して展観するそうだから、鶴岡八幡の舞殿が石段の下に屋根を伏せたようにつぶれている実況などを見ることができよう。ひどく重いはずの長谷の大仏は一尺ほど前にのめって、台石を押し出していた。
津波は稲瀬川、滑川など、河底で土地の低いところからはいってきて上流で氾濫した。英文学者で自由人の厨川白村が足が不自由だったので、人に背負われて逃げる途中、海岸橋で海から来る津波を受けて不運にも水に没してなくなった。津波の来る時、海外に出ていた人の話だと、沖まで潮がひいて、一度、海がなくなったように一面の砂地になり、その後に沖が黒くなり、山のような浪が押し寄せてきたと言う。